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 藤本は夜が今、始まろうとする瞬間を捉えている。
 それは昼を感じさせるほのかな光が完全には姿を消していない、 あの時間帯である。
 薄ら明かりは地平線にはかなげにとどまり,草木の先端に辛うじて宿る。そう、水たまりが柔かいオパール色の光を放つ、あの瞬間である。
 すべてが揺らいでゆくこの瞬間は、時間がいつもよりゆったりと流れるように感じられる、瞑想の時間帯である。それは、旅人が,自分はひとりであること、 そしてこのひろい世界の律動の中でちっぽけな存在であることを実感する時間でもある。そして陽差しの降り注ぐ日中にはたしかに存在した時間が、真夜中の暗闇の中にあっという間に身を隠す、あの瞬間である。
 すべてが不確かなまま大きな安らぎが広がるが、いつかは死ぬべき運命にあるもののみが持つ弱さを私たちに想い起こさせる。そして、その想いは私たちの中で、たじろぐことのない瞑想の中に溜まる。見えるものが完全に消え去った瞬間こそ、私たちの魂が永遠に通じる感覚にもっとも近づく一瞬なのだ。やがて、現実に存在するものは、私たちが触れ、ぶつかる平面と立体に過ぎなくなる。こうした不確かな塊のまま夜はさらに更けてゆき、人の歩みも手探りの状態になってゆく。どんな薮でもつまずく心配あるが、とりわけこの夜の国では私たちの肉体は前進するのに最大の注意を払う。
 
 私たちは視線を上に向け、地平線に消えていこうとするかすかな光の残照を求める。しかし、それももはや別のもので、近づくことのできない。かなたにあるものは、空と大地の接点だけだ。光の最後のシルエットは、そこから浮かび上がる木々や杭や草むらの草陰で"アデュー"と最後の別れを告げている。すべての翳が忍び込み、別のドラマが始まっている。私たちももはや闇の中だ。ただ、夜のかなた、遠いかなたでは光が満ち溢れる平原が広がっていることを私たちは知っている。もう一つの別の世界、その遠い向こうに光の国があることを。  写真の前ではいくらでも好きなだけ瞑想に耽ることができる。写真は、このはかない一瞬を永遠にすることができる。外面上の現実は凍結されるが、内面の瞑想は、その天命まで永らえることができる。つまり、空間的な広がりを霊的に満たすことができるのだ。
 では、ガストン・バシュラールの言葉で締めくくりたい。
「無限の広がりは不変の霊魂の動きである」。


ジャン=クロード・ルマニー(元フランス国立図書館写真部門・名誉首席キュレーター)
2000年川崎市市民ミュージアム 「陰翳礼賛 フランス現代写真ージャン=クロード・ルマニーの視点ー」カタログより